今日、なんとなくスピノザについての項目をウィキペディアで見ていたのですが、英語・フランス語・日本語のサイトが、それぞれ異なっているということが印象に残りました。
同じ人間で、著作も一緒のはずなのですが、それぞれの言語で、注目する点が少しずつ異なっているようです。高校や大学などでスピノザを教えるときにもきっと違いがあるのだろうな、と思いました。住んでいる地域の事情(?)によって、ひとりの人間の思想からから汲み取るものが違うというのは、面白く感じられました。比較系のテーマでこういうのはきっとよくあるのでしょうけれど、英語圏のスピノザ像とフランス語圏のスピノザ像と日本語圏のスピノザ像はそれぞれ異なるんだな、としみじみ思いました。
ちなみにスピノザさんは、随分前にお亡くなりなった方(17世紀の人(1632年に生まれ、1677年に亡くなっています))で、オランダの合理主義哲学者として知られています。デカルト、ライプニッツという名前とともにスピノザの名前を学んだ人は多いと思います。
私は、こういう人たちのことをよく知らないのですが、一応、ウィキペディアに書いてあることを理解するために、今日読んだページから学んだ事を書いておきますね。学んだといっても哲学的なことは読んでも(多分)わからないので、人生についてです。私は、Internet Encyclopedia of Philosophy http://www.iep.utm.edu/spinoza/ を読みました。英語のサイトです。「哲学百科事典」というサイトで執筆者が大学の先生なので、信頼できるかと思い、読みました。問題は私の読解力です…
スピノザさんは、そもそもポルトガルのユダヤ人の家系らしいですが、当時のポルトガルといえば魔女裁判が盛んで、親御さんがそういうことが比較的ない(安全な)オランダに移住したようです。スピノザさんはユダヤ人としての教育を受け、その後貿易商のお父さんのお仕事を義理の兄(か弟)とともに手伝っていたそうですが、その仕事を通じて、自由思想のプロテスタントの人たちと知り合いになることになったそうです。そして、その手の交友関係から、スコラ主義の対極にあると見なされた思想の一つ、デカルトの思想について学ぶことになったようです。
とはいえ、ユダヤ人の彼が、すぐに思想を変えるということはなかったようなのですが、元イエズス会士のFranciscus Van den Enden(読み方が不明です。フランシスクス・ヴァン・デン・エンデンかしら? 1602-1674)さんがアムステルダムに開いたラテン語の学校に通ったそうです。このVan den Endenさんは、結構スゴイ人で、ラテンの学者としてのみならず医学博士としても科学の新しいことに何でも興味を示していたようです。また、宗教心がなく、民主政治という考えを提唱しました。
ということで、1656年にはユダヤの長老のひとたちから、細かい理由無しに、スピノザさんは破門されてしまいます。そして、ユダヤ人コミュニティで、村八分のような目にあいます。スピノザさんと話してはだめ、スピノザさんと商売の取引をしてはだめ、スピノザさんの書いたものを読んではだめ、挙句の果てに、スピノザさんに近寄ってはだめ、という命令が出ます。今、学校や会社でいじめやハラスメントなどが問題になりますが、スピノザさんは、共同体内で本当に疎外されてしまったようです。
そのような状況で、スピノザさんはお仕事ができなくなります。そのころのスピノザさんの生活の様子はあまりよくわかっていないようなのですが、Franciscus Van den Endeさんのところで勉強を続け、時には先生のお宅に滞在した事もあったようです。生計のために「レンズ磨き」をしていたと言われます。また、レイデンに、大学で勉強するために定期的に通っていた事もわかっているそうです。このようにして、スピノザさんは、デカルトについて学び、1661年には、レイデンのそばの町Rijnsburg レインスブルグ に引っ越したそうです。そのころから、the Treatise on the Emendation of the Intellect 『人間知性改善論』 を書き始めたそうですが、書き終えることは(書き終えようと努力していた形跡はあるようですが)なかったそうです。その後、Short Treatise on God, Man and His Well-Beingというthe Ethics 『エチカ』 で扱われるテーマが既に表れているような著作をしたそうです。この作品は、スピノザさんの知り合いの間で読まれたそうです。(この町では、スピノザさんは村八分にあっていないようでよかったと思います。)
1663年に、デン・ハーグから遠くない町Voorburg フォールブルグ に引越し、生活は静かとは言え忙しくなったそうです。そこで、レイデンの学生一人にデカルトのPrinciples of Philosophy 『哲学の原理』 について行った講義をまとめて出版する準備を始めたそうです。出版された作品の名前はRené Descartes’s Principles of Philosophy, Parts I and II, Demonstrated According to the Geometric Method by Benedict de Spinoza of Amsterdam 『デカルトの哲学原理』(日本語の題は短い!) で、友人のLodewijk Meyer ルイス・マイヤー(1629-1681)さんに序文を頼み、自分が単にこの本でデカルトの本について説明をしただけであって、デカルトの考えを支持するわけではないということをはっきり言ったそうです。デカルトをすごいとは思っていても、デカルトの考えにまったく同意というわけではなかったようです。
1965年くらいまでには、theEthics 『エチカ』 の元となる原稿が人から人へと公になることなく読まれるようになったようですが、政治的・宗教的状況を鑑みて、この作品を終えずに、theEthics を理解できるような聴衆を増やすために、the Theological-Political Treatis 『神学・政治論』 を書き、1670年に匿名で出版したそうです。この本の目的は、社会の安定と安全は思想の自由(哲学する自由)によって高まるということを論じることだったようですが、聖職者を政治的権力から遠ざけるよう主張したので、激しい非難にあいます。(時代が時代なので…ですよね。)そして、悪の著作といわれ、友人も遠ざかり、スピノザさんは無神論者とレッテル付けされてしまいます。(かわいそう…)
1670年にスピノザさんはデン・ハーグに引っ越し、そこで7年後お亡くなりになります。the Theological-Political Treatis 『神学・政治論』 の出版で巻き起こった騒動の後始末をしなければならなかったところに、スピノザさんが、その自由主義政策をすごいと感心していた連邦総督のJan De Witt ヤン・デ・ウィット さんが、Jan De Wittさんの兄のCornelius コルネリウス さんと一緒に、怒ったカルヴィニストのオレンジ(オラニエ)党の人々に虐殺されてしまうという事件があって、スピノザさんはこういう党派が力をつけたことで自分の立場も危ういと思うようになったそうです。
そうこうしながら、スピノザさんは、いくつもの新しい計画に取り掛かり始めたそうです。ヘブライ語の文法に取り掛かり、theEthics 『エチカ』 を再び書き始めたそうです。1675年頃までには、theEthicsは書き終わっていたようですが、スピノザさんは状況を鑑み出版を見合わせ、死後にこの作品は公になることになります。
また、スピノザさんは呼吸器系統の病気で徐々に体調を崩すようになるのですが、the Political Treatise 『国家論』 を書こうとします(結局未完で終わってしまうのですが)。
1677年にスピノザさんは借りていた部屋で穏やかに死を迎えたそうです。遺書はなく、未刊の原稿(the Treatise on the Emendation of the Intellect 『人間知性改善論』 , the Ethics 『エチカ』 , the Hebrew Grammar 『ヘブライ語文法綱要』, the Political Treatise 『国家論』 )と書簡が残っていたそうです。これらは直ぐにアムステルダムに出版されるよう送られたそうで、B.D.S. Opus Posthumaとして出版されるのですが、騒ぎは避けられず、1678年にはオランダ全土でこれらの作品は禁止されたそうです…ここまで読んで、私は、今の時代に生まれてよかったな、と思いました。思想の自由・表現の自由がないのは怖いです。
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